或る編集者の本を読んで

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饒舌は脆弱であり、所詮沈黙には敵わない

なぜなら語彙を尽くし記憶とロジックをを駆使して濃密な紙面を意識すればするほど、彼がすでに社会的成功を収め今や出版業界の異端児かレジェンドであるとしても、人の才能にたかり詐欺まがいに忍び寄り道化師の如く媚びへつらい焚き付けて、まだ無形のものとして才能ある人の内面に揺蕩うものから金になるエキスを引き出し、商品化し数量化し物流に乗せ販促をかけ現金化する、錬金術師の浅ましさが不快を誘う
あらゆるアプローチとパフォーマンスの裏には、販売部数と金儲けしか頭にないくせに、才能を発見育成する功労者か文化の後見人としての一翼を担う存在であるかのように振る舞い、数々の成功談を得々として喋り、果ては自らの幼少期の様々なことを何の臆面もなく作家と同列に語るに至っては、もはや勘違いした賤業者の卑しい奢りが鼻に付くばかりだ

「たった一人の熱狂」「異端者の快楽」を読んで思ったことはこうだ

見城徹は編集者としては一流なんだろうが
結局、編集者業のいかに賤業であるかを暴露したに過ぎない

その異常な頑張りは確かに彼にとって熱狂であり快楽なのだが
それは、彼自らが告白しているように
生に対する執着と死に対する恐怖が常に彼を支配していることによる

彼はいつも熱狂と快楽のあとに来るものに怯えているのだ

彼は必ずしも逞しい異端者や英雄ではなく
覚悟の定まらない右往左往して忙しぶっているただの
哀れな女々しい魂に思えてならない

「表現」が人間にとってさも崇高なものであるかのような共同幻想があるが、「芸術」「芸能」を含め、昔は上層階級かパトロンに、今は大衆かあるいは消費者に、すなわち金を払う者に金を対価として我が身を晒し技術や芸を見せるということであり、「表現」とはその内側に受け狙いの媚びという卑しさを隠し持ち、古来より表現者は尊敬される一方で賤業者として卑しまれてきたのだ

編集者として表現者の裏方のプロを自認するなら
プロの誇りと矜持を持って黒子に徹し、利益の一端を享受するかわりに
舞台裏の一切をちゃらちゃら喋るべきではない

四十数年前、ある宗教団体のトップが「人生は自己表現である」という本をだし、俺はまだ高校一年くらいだったが、その表題に当時ある種の斬新さを感じると同時に、それでは表現する対象ありきで、自己不在ではないのかと思った

今もそう思う

生の発露はいい
だが、人間の本能に過ぎない承認欲求で、人生のほとんどをわあわあやっている連中には辟易しているし、表現者の心に去来する真実との乖離と、表現が先行することによる自らの空洞と虚無は察するに余りある

真に力のある奴は黙っている

どんな芸術も、ドフトエフスキーもトルストイもヘッセもジッドもバッハもベートーベンもモーツァルトもダビンチも、名もなき一木一草や路傍の石ころに遠く及ばない
人間以外のすべての生物と物質の、一片の自己主張も弁明もない沈黙の潔さと深み
そのハードボイルドの見事さに、思わず喝采を叫びたくなる

大した奴らだ、大した世界だ

彼らは表現という上っ面におよぐことなく
永遠に黙して語らず、完全な自身として永遠を存在している

真に力のある奴は黙っている
真の力は沈黙の中にのみ宿る



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