渋沢栄一の若き日

D46FCEF8-4752-41E8-A439-11735998D959.jpeg大佛次郎「激流 渋沢栄一の若き日」読了

幕末・明治維新は自分にとってライフワークと言えるほどに魅力的な興味尽きない時代として付き合ってきたが、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の視点をたどる時、戸惑うほどに維新はまた全く違う色合いを帯びて見えてくる。だがそれは類い稀な彼の人間性や能力は言わずもがなだろうが、それ以上に奇跡とも言える幸運の数々があればこその、彼が手にした歴史的実績であり栄誉だと思う。
幕末維新の大動乱の中で数え切れない草莽の志士が倒れ流した血の傍らで、彼は刃をくぐることも砲弾の雨に命を晒すこともなく、将軍となった慶喜の推挙もあってパリ万国博覧会に使節団として随行しヨーロッパ各国を歴訪して、歴史の答えを誰よりも先に見てきて西洋の資本主義と産業を戊辰戦争後の新生日本に絶妙な立ち位置を得て立ち上げ育成した。彼は尊王攘夷思想を持ってはいたが、一橋家や幕府に手腕を発揮したものの、倒幕、回天に何一つ貢献したわけではなく、主体的な政治的決断をしたわけでもなく、従って薩長新政権から糾弾されることもなく、ただ幸運に流されながら結果的に自らの能力を蓄え養っていた。そして、新しい時代は彼を必要とした。埼玉県深谷の豪農の長男、百姓の特権階級・エリートが、ヨーロッパの文明、資本主義の構造についての知識や理解から、ただひたすら制度を作り産業を起こし人を育て資本主義の苗を植えていったのだ。


一橋家御用人の平岡円四郎との妙な縁で一橋家の武士に取り立てられ、渋沢篤太夫と名を改め、関東人選御用掛として新規歩兵を集めたりしている中、平岡円四郎は水戸の浪士に暗殺され、筑波山に集まった天狗党の志士八百余人は越前新保まで出て来た後行き詰まり、加賀藩の大兵の前に降伏。幕府は三百五十余人を斬首、その他の者は追放流罪になったりした。歩兵取り立てに一橋家領地の方々の地方に出ている間に、徐々に手腕を発揮するとともに、各地の経済状態を実地に見ることで一橋家の財政を改善する様々な意見を出したりして、この意見が成功し篤太夫は勘定組頭並に任ぜられ、自由にこの新しい仕事を推進することになる。そしてそうした間にも、将軍家茂が死に慶喜が一橋家を出て、幕府を支配することになる。慶喜が将軍になってしばらくは疎縁となるが、そうしたある時に慶喜の推挙もあり、パリ万国使節団随行という夢のような話が来たのだった。

新政府から帰国命令が出てフランスをはじめヨーロッパ各国歴訪から帰国の途につく時、将軍代理としての慶喜の弟である民部公子の世話はすでに篤太夫がするまでになっていた。水戸藩庁から出迎えの者が、わざわざフランスまで来て一行はマルセイユから英国船に乗った。出迎えの武士達からは、東北列藩同盟や幕府海軍が榎本武揚の指揮下に逃れ、蝦夷地に旧幕府勢力を植えつけようとしていることも聞かされた。だが、インドを過ぎ、日本に近くなってみると、これらの説がもはや旧聞であり、会津は夏に陥落し、東北の諸藩は官軍に降り、函館に逃れた海軍も危ういということが分かった。ついに揚子江を入って上海の港に入る。ここのホテルで人が訪ねて来たと取次があった。かつて面識はある長野慶次郎という男がオランダの武器商人と、民部公子がフランスから帰られてこの上海に来ておられると聞いてやってきたというのだ。将軍家の弟君である民部公子に、幕府海軍が苦境に立っている函館に行って頂くよう勧めて欲しい。船の方は同行のオランダ商人が都合できるし、ここから武器を積んで蝦夷地に向かえば、幕府も起死回生出来るのだという。渋沢君、頼む。お願いしてくれたまえ、と言う。
篤太夫は思いがけぬ相談だったし、容易ならぬことであった。彼自身が、慶喜の不甲斐なさを、ひそかに憤っていたことだから、徳川方に対する最後の機会として、この話を聞くことも出来はした。 しかし、なんのために? と、冷静に、篤太夫は考えることが出来た。天下を両分して薩長に勝ちたいというだけのことである。四民のためではない。亡びた徳川と、残存した武士階級のためだけのことである。故国のためには、もっと、その他に考えるべきこと、なすべきことがあるはずである。・・
顔に烈しい気色を見せて迫る長野に対して、理性すでに無く荒れ狂っている日本の風の勢いを感じながらも、渋沢は決然として民部公子への説得も、彼らの御目通りも拒絶した
「そんなことをしている時ではないのだ、長野君」
  
帰国した後、民部公子から是非水戸に来てもらいたいと言われ、民部公子の直書を持って静岡の宝台院に謹慎中の慶喜に会いに行けば、慶喜からは静岡藩の勘定組頭を言い渡された。
だが、渋沢は水戸の民部公子に仕えるのを止め、静岡に留まりながらも藩庁に勤めるのも止めた。主人はもう要らなかった。実に、もう要らなかった。
身分だけで人間の生活が保証されている特殊な世界は、まったく亡び去る運命にあったものだし、今日のように瓦解を見たのは当然のことだったと言えるのだ。仕事に自らの意欲を持つこと。そこからいのちが輝き出るのだ。自分がひとりで歩く自由な人となって、広い世界に道を求め、なすあてもない日本人の間に、自分と同じように、誠実に仕事に協力してくれる者をさがすのだ。永く眠り過ぎて、外国に遅れた日本人も、もう、目を覚ましてくれる者が幾らでもいるはずなのだ。
「なにもかも、これからだ、というのはなんと楽しいことだろう」                 大仏次郎「激流 渋沢栄一の若き日」 要約

徳川幕府の封建制度下においても、名主であり豪農の長男である渋沢はすでに百姓という生産者の中のエリートであり、働きもせずに搾取し続ける武士階級の存在に不条理を感じ、尊皇攘夷や討幕の思想を持ってはいたが、藍葉を仕入れ藍玉を売り歩く中で早くから経済的な感覚を見につけており、いち早くフランスやヨーロッパの各国の資本主義制度の実体を目の当たりにし、その仕組みを学ぶに及んでは、彼がのちに日本の資本主義の父と呼ばれるようになるのも至極当然であるような気もする。

彼が帰国の途中、戊辰戦争や箱館戦争を徳川と残存武士階級の私戦に過ぎないと看破することに、言われてみればその通りだと、四民にとってそれが何の意味があるのかと、百姓のエリートにこう切って捨てられては、さすがに榎本や土方の立場があまりにもなく無慈悲に過ぎるではないかと、資本主義の父の慧眼に唸りつつ、ついこの前まで公だった榎本や土方の義や美意識や壮烈な漢の生き様に同情を寄せざる得ないのだ
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この記事へのコメント

ママジャム
2021年01月26日 04:54
時代は変われど、奇才は奇才だと痛感します。歴史を知ることは、愉快です。
一冊の本を読んだ気がしました。素晴らしい!