疫病と新選組

05F8AAAF-0B90-4B19-A0C5-F8C54E6F7A7B.jpeg幕末史に一種異様な光彩を放つ新選組の結成には、近藤勇、土方歳三も気付いてはいなかったであろう奇妙な伏線があった。
ハシカとコレラという二つの流行病が彼らをして京都に走らしめた。

文久二年(1862)、正月ごろに長崎に入港した異国船があり、病人を残したほか全員が上陸した。そのうちの数人が高熱で路上に倒れ、しきりと咳をし、やがて船にはこばれた。それがハシカであることがわかった。このころ、大西洋上のフェレール群島(デンマーク領)で猛烈なハシカが流行し、たちまち全ヨーロッパに蔓延したから、この船員が長崎で飛散させた病原体は、おそらくそういう経路をたどったものだろう。
長崎は、軒並みこの病原体に襲われ、これが、中国筋から近畿にまで蔓延した。たまたま、京大坂に旅行していた二人の江戸の僧がある。この僧は江戸は江戸でも、小石川柳町の近藤道場「試衛館」と背中あわせになっている伝通院の僧であった。これが道中何事もなく江戸にもどったが、伝通院の僧房でわらじをぬぐとともに発病し、たちまち山内の僧俗の大半はこれで倒れた。この伝通院の二人がもって帰った異国渡来のハシカは、またたくまに小石川一円の老若男女を倒し、江戸中に蔓延しはじめた。これにコレラの流行が加わった。コレラは数年前の安政年間が日本最初の流行で、この文久二年夏が三度目。この伝染病も、開港による西洋人もちこみの疫病である。
江戸の町々はどの家も雨戸を締めきって、往来に人がなく、死の町のようになっている。夏というのに両国橋に涼みに出かける者もなく、夜舗も立たず、花柳街も、吉原、岡場所をとわず、湯屋、風呂屋、髪結床といった公衆のあつまる場所にはいっさい人が寄り付かず、このため、江戸の男女は垢だらけになり、地虫のように屋内で息をひそめている。
流行の発祥地である小石川一帯はとくに罹患者が多く、人が寄りつかない。近藤道場には門人がかいもく寄りつかなくなった。(悪疫の猖獗は、七月、八月とつづき、九月になってもやまない。十月になってようやく衰えたが、道場に水滸伝中の梁山泊のごとく、いつもごろごろしている一部の食客を除いて、門人はほとんどもどってこなかった)
             司馬遼太郎「燃えよ剣」(上)p152〜158 一部抜粋

秋も暮れ、冬になる。文久二年も暮れに伊達藩脱藩の食客である山南敬助があるはなしをもってくる。彼と千葉道場で同門の清河八郎という俊才が幕閣に働きかけて、幕府の官費による浪士組の設立を上申し、それが、老中板倉周防守の裁断で許可がおりたというのだ。近藤、土方以下総勢九人はこれに参加することを決意し、試衛館道場は潰れた。幕府徴募の浪士組は、各道場の系統から応募三百人におよんだが、道場そのものが潰れたのは試衛館だけであった。
                         同 p161〜167 一部要約

天然理心流 田舎剣法の塾頭 土方歳三よ
武州多摩 石田村の百姓のせがれ
バラガキのトシよ

新選組という幕末の志士らにとっての最強の疫病神となり
あるいは、武士以上の美意識と戦闘力を持った最強の組織を作り上げ
ある意味では徳川幕府二百六十年を嘲笑い
無能な旗本八万騎に代わり慶喜に代わって
徳川の意地を歴史に鮮烈に示して見せた

江戸において浪士徴募の檄文すら届かなかった百姓流儀の剣術道場の塾頭が
幕末史に名を残すなど到底有り得ない奇跡なのだが

バラガキのトシよ

あんたにとっちゃ、ハシカもコレラも
徳川も薩長も、佐幕も尊王攘夷も大したことじゃない

あんたにとっちゃ
周りのすべては不愉快な敵なのさ

あんたの頭はいつもぐるぐるまわり
自らの前にあり得ない血道を開く

あんたは武士でもなきゃ博徒でもない
百姓でもないし商人でもない
徳川でもなきゃ薩長でもない

あんたは武州多摩のバラガキだ
一個の男児だ

いや、あんたは新選組を作った男だ
新選組は、あんたの作品だ

あんたは芸術家かもしれないな
同時に俳優でもあるかもしれない

新選組副長 土方歳三
あんたはたいした男だ


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この記事へのコメント

ママジャム
2020年06月05日 22:49
土方歳三の魅力は、司馬遼太郎の別の作品からも大いに感じることができました。
「男」の、いやいや人間の魅力を独り占めしたような、印象深い人ですよね。