アロハを着た異端(ロックンロール!)

北方謙三の「水滸伝 16巻」の解説を吉川晃司が書いている。

また 「替天行道 北方水滸伝読本」の中にも 北方謙三との対談が収められている。

ロックンローラーとして 俳優として今尚 息の長い活躍をしているようだが

彼の解説は ロックンローラーとしてのアイデンティティーに満ちている。

もちろん依頼の意図がそこにある限り それに応える文章を書かざる得ないが

対談にしても文章にしても そうなんだろうなと思えるほどに 覇気が伝わってくる


最近 三面記事を賑わす内田裕也にしても 何んだかよく分からないなりに その有りようはロックンローラーだし

時折何かで コメントを求められた時 親指を立てて 「ロックンロール!」と一言。


 思わず笑ってしまうが 家庭や社会において如何に問題児であろうと それが妄想であろうと

彼のなかでは一貫したアイデンティティーであるに違いない。


 俺とは何か    飯の種ではなく個種の体現  すなわち アイデンティティーだ

  変わることのない自己同一性だ


  飯が食えても 俺が俺でなきゃ 俺が生きていることにはならない。

   食えることは 俺という個種の生存の十分条件ではない。


 吉川晃司も対談のなかで ロックンロールは反体制であり ロックンローラーは体制の中で埋もれて汚れてしまったものとか、生きてるんだけど実は死んでしまっているようなものに対してかみ付くと いう人間だと言っている。

 それは梁山泊にもつながる。

 アイデンティティーというのは 個の主体性をいうものだから 本質的に体制とは馴染み難いものなのかもしれない。


 体制とか 反体制とか それはいい。

 要は 食っていく術が変わっても変わらぬ俺のアイデンティティーこそがパスポートであり得るということだ。